Title3.jpg (5653 バイト)

お願いこの章の内容の不備なところ、間違っているところ又はこんな話もあるよと補足したい内容がございましたらEメールください。このページに掲載させていただきます。     

章.プラモ創世記
1958.12月に日本初の国産プラモデルが発売さ れました。
   ☆そうなんです。もう40年以上になるんですネ。では、その頃のお話を一席。

1.専門雑誌の対応
プラモデルが模型ファンに知られ出したS34〜35年頃からの各専門雑誌のプラモへの取り組みを考える。
当時は、「航空情報」と「航空ファン」とが二大専門雑誌だったと言っていいと思います。

「航情」は、飛行機、航空界全般に対して、より専門的な内容で、しかも写真がきれいで掲載図面も精密であった。
付録に解剖図 やシルエット図が”やたら”に多かった。
この解剖図については、F100が米国でもまだ極秘だった時期に「航情」の図があまりに正確な内容だったので、
「機密漏洩ではないか」と問題になった、……と 「航情」が紙面で紹介した事もありました。
シルエット図について説明しますと、例えば「今、日本上空を飛んでいる航空機」と題し、黒ベタ塗りのシルエットの一覧が
あり下に機種名が書いてあるものでした。
解説;真珠湾攻撃を間近に控えた空母赤城の艦内でシルエット図を上官が指すとみんなが「ペンシルバニア」とか
「レキシントン」とか言って、最後に出した図に「エンタープライズ」と答えたら「バカッ!これは赤城だ !」で話を落と
す、あの映画「トラトラトラ」の話にもシルエット図が登場します。いえ、当時その場にいた訳じゃござんせんが… 
私のことなら自己紹介ページをどうぞ、解剖図付きで載っています。

「航フ」は内容が柔らかく、読み物的内容と紙面の半分は模型記事 と模型写真で占めていたが、その割には
添付図面は比較的簡単な物だった。
模型もUコンからラジコン、ソリッドモデルに力を入れていた。 ただ当時は写真の解像力が「航情」に比べ弱く、
外国から配給された同じ写真でも、赤だったらベタッとした赤で、アートの写真も全体に眠い写真であった。
中学生だった私は「航フ」に対して生意気にも 「もっとコントラストの効いたキリッとした写真を載せて」なんて投書したもんです。
今ならハードの違いで、定価を上げてもいいなら…という事情も推察できるのですが。丁度、HPの写真をキレイにしょうと
するとロード時間が長くなり見てもらえないのでは、と思うのと同じかナ 。  
価格が出たついでに話しますとS37年の雑誌の価格は、「航情」が180円 「航フ」が170円です。断定は出来ないが
その頃の初任給を1.5万円、現在を18〜20万とすると、現在よりページ数も少な〜い一冊が2千円以上の値段になります。
中高校生の身分でよく買えたもんだ。   …ということで各雑誌を個別にご紹介致します。


航空ファン(S26発刊)

航フは、航情に比べ模型記事の多い雑誌だったので、プラモデルを紙面に採り入れるのが最初と思われそうですが、
ソリッドモデルに力を入れてたせいか「航情」より遅い。むしろ当時のプラモに否定的だったかもしれない。
S36.10の増刊号「楽しい模型飛行機の作り方」で初めてプラモキットに触れられている。
それも外国キットの特色とプロペラの付け方の注意程度で具体性は無く、ましてや国産キットは出てこない。
ただし、あのマルサンはS34にはもう航フにプラモの広告を出しています。
S37年からフジミが戦艦長門、そして大鳳を、ソリモメーカのYMCもプラモの広告を出してます。
S38年田宮が零戦、紫電改、雷電の1/50傑作機シリーズで、長谷川が1/70シリーズでP51、零観、1/90メタルカラーシリーズでF104Jをいよいよ出してきています。 
参考までに; 1/72シリーズと銘打ちF4ファントムを出したのは、ず〜と後で、S41.8月に広告を出しています。商標マークは丸の中にHが入っているものです。
しかし航フに一般のモデラーが作品を投稿し始めたのは39年頃からかと思います。
S40年頃から「製品批評」というごく小さな新製品の紹介コーナーが出来て、このままのスタイルで一年続きます。
また、時代はレーシングカーとサンダーバード全盛だったわけですが、そろそろ下火となった頃です。

S41年5月に「航フ」に異変が起こります。
外国プラモ製品の解説をしていた某氏がマルサン50 百式司偵キットに対し辛口批評し、翌月号で、監修したとされ図面を書いた有名な橋本氏が
これに猛反論という形をとり、これより現在のスタイルに通じる”00社のこのキット”というようなガイドがされるようになりました。 
面白いことに後年、橋本氏はタミヤ50零観のガイドの内容についてS42.9月誌上において、メーカー側と逆に対立した事もありました。
ここではメーカーがモデリングする際の検討資料となった零観の取説の基本寸法と、実物写真との比較による数々の矛盾点をどう取捨選択、
あるいは妥協していくのかの苦脳、工夫等の貴重な証言が述べられております。
それ程当時はプラモに対し真剣な取り組みがあって、今の世界一の製品レベルになったと思います。
(ちなみにこの時の投稿写真の彩雲会ソリッド展に、現HP「彩雲会」・西野良宏氏の若き日の作品、オランダ空軍のF104Gが載っていました)
S41.7月に”静岡プラモデル見本市”【昭和37年3月名称変更】のレポート記事がのっています。
見本市はこの時すでに第5回目になっていますが、「航フ」が取材し紙面で取り上げたのはこれが初めてだと思います。
内容は、長谷川72ジェットファイターシリーズのファントムUの出荷直前で、企画としてMig21、F105があがっている。
フジミ;F8クルーセーダー72、 田宮;99式艦爆50等が紹介されています。
なおアオシマは既存の72シリーズ13種が並び圧巻、… とある。
 
印象に残っている記事 : 「航フ」は艦船関係の写真や投稿写真も載せていました。綴じ込みとしてS36年「ハワイ出撃前の赤城」などを思い出します。
別冊は「連合艦隊写真集」「独艦船集」等があります。 また米空母は頻繁に連載されていました。

艦船模型写真として一番ショックを受けたのは、中井氏の「榛名」SC220です。35年頃だと思います。そのグラビア写真は切り取って今も持っています。(上の写真)
この作品はその後、S36年同社の「楽しい模型飛行機の作り方」の作例としてなぜか出て来ます。そしてまたモデルアートS42年6月号にも出ています。
そして又々MA社「艦艇模型写真集2」に掲載予定でしたが多分発刊されず幻に終ったようですが、やはり名作でありました。 (写真出典:航空ファンと航空情報)

この艦に匹敵して多くの雑誌に取り上げられているのが、亀井氏の「鳥海」SC220ですネ。他に「伊勢」も掲載されました。

また、印象に残るのがS42年月号に載った岡本氏の「扶桑」SC200です。 これは次の「モデルネービー作品集」にも載っています。
この作品画像は「友人の作品」のページに氏のご好意で掲載しています。

航空情報
「日本軍用機の全貌」

最初に影響を受けた本です。
これ以前に、頂いていた初版本(’55年)の表紙には零戦11型前面からエンジン部のクローズアップの写真でカウル下に機番が書いてありました。
そこで、「航空機年鑑」のように線図を期待して、’59年版(第9版)を現金450円を郵送して1か月以上待たされて手に入れましたが、
やはりベタ塗りの図面でがっかりしたのを覚えています。
プロペラ径を烏口コンパスで書いたり、車輪なども記載していますが、どうやって書いたのかもう覚えていません。

S35.2増刊号「航空ファン読本」2号の中で「プラスチック・ソリッドモデル」と呼び、米国のメーカを紹介している。
世界最大のプラモメーカをリベル社と位置付けし、モノグラムはキット数は少ないが逸品揃いと紹介している。
ところで、このRevell 社の呼称ですが、日本語では表記しにくいRが付いているからか、 リベル/ラーベル/ラベールとなり、マルサンがRevell と提携した時には
今後は”ラベール” で統一する…声明が出されていますがその後レベルとなってしまいました。
その過渡期にはレベル社の広告はもちろんレベルと表記されていましたが、製品紹介のページで記者はラベールと表記していました。

S36.9に「プラモデル読本」が発売された。飛行機に限らず人体模型からゴジラまでとなっている。
キット一覧のページもあるようで見てみたいものです。だだ、買っていないという事は…。
S37.2より”ぷらも”という半ページのコラムが始まりました。(もしかすると1月からかも、この号だけ紛失) この欄で(S)氏が指摘した逸話を紹介します。
「国産製品がデパート売り場で数では外国製品をノックアウトしかかっている、中には粗悪品も多いが、これこそ米国製品と肩を並べられる国産キットが登場した。
「彗星」SC75である、しかしどこを見ても製造・発売元が記載されてない」と怒っていました。 この会社名わかりますよネ。(この会社のエピソードは”昔ばなし5でご紹介しています)
S37.5月は本誌の中で”ぷらもでる巨匠の放談”と題し4ページにわたって載っています。その代わり”ぷらも”はお休み… そして ”ぷらも”は12月まで続きました。
いよいよS38年2月より”プラモページ”が2ページになって連載されだしました。 
この最初のページで横森氏が”考証派の嘆き”と題して、「これといった資料が揃わぬとキットに手がつけられぬ」と言っております。今の私もおんなじです。
「プラモガイド63」が発刊される(どうも一般的なアドバイス程度と大掴みのキット内容の紹介みたいです) 
私は66年米国編から73年傑作集編までしか持ってないのでコメントできませんが、”流れ”としてはこうなっていきます。(上の掲載写真右参照)


【左】1960年頃の航空情報誌
 F104が次期戦闘機候補になっていて、源田実空将が査察結果を解説しています。写真下に「ジェット機」という本がありますが、空力理論や歴史などを解説した内容です。
 当時の最新鋭機のF105Bを例にして技術解説しています。
【中】航空ファン読本からプラモデル読本、
 ファン読本では、各号図面とソリモの作り方が載っています。、左から「ムスタング」「ニッポン号」「アルバトロス」の記事が見える。
 「ムスタング」の塗装指定は赤で「玩具ッぽくならないように…」の注意が有ります。約束の時計ゼンマイ板で引き込み脚の工作が勧められています。
 全国各地で腕時計が破壊されていたと推測されます。
 「ニッポン号」は96式陸攻でなくてがっかりした事を覚えています。
 「アルバトロス」は1/50ですが、ローゼン塗装の仕方は、翼の上に塗装パターンの角々を虫ピンで印を入れて再現する…となっています。
 薄い翼は虫ピンの穴だらけになり、その点を繋いで塗るのも相当の忍耐と繊細な技術が要求されます。しかし、再現出来る達人はいたのですから驚きです。
【右】世界航空機年鑑の1960〜62年


【左】世界航空機年鑑の1960〜62年版です。ヴィジランテーもコルセアも試作段階のオレンジ塗装ですね。
   バックにF104J1号機が米国でテスト飛行に成功!という写真です。上写真の59年頃はゴールデンブリッジ上空を飛ぶF104Cの実戦部隊投入の写真も印象的でしたけど…
【右】プラモデル読本から発展した「プラモガイド」の66年〜69年版です。その後紙面が大型になります。


 「日本で一番最初にプラモを展示会に出品した男
それは、S34.9月だといいます。
「航情」のS37.3月号の投書で東京ソリッドクラブの遠山氏が述べています。
クラブの定例のソリモ展示会の中で、プラモ20点を展示した。その後の会報の中で一部の人から非難を受けたが、今昔の感ありと結んでいます。
東京ソリッドクラブ(TSMC)について: 戦後まもなくの(注)発足で会員数も多い有名ソリモクラブ、活動も活発で 西の”大阪彩雲会と互いに
刺激しあって活動している、と「プラモデル読本2」S35.2で紹介。 ”温知会”と合併してできたクラブです…との記事がどこかあったが見つけられない。
S40.秋に大阪彩雲会と合同例会をテーマ”大型民間機群”として開いたが、その彩雲会の作品の素晴らしさに完全に脱帽、製作意欲をかき立てられた…
との記事が「航フ」S41.6の模型写真コーナーにある。何かモデラーとしてさわやかさを感じます。
TSMCはS44年から”ソリモの艦上機を空母の飛行甲板に載せてみたい”という永年の夢から1/50の”空母翔鶴”を誕生させたクラブでもあります。
”翔鶴”の製作記は「航フ」S46.6より連載。
 (注) 会の発足を「航フ」s41.9では昭和32年としています。合併時を発足時としているのでしょうか

モデルアート
S41.11月創刊で28ページの小本でスタート。第2集はS42.3月で、これより月刊になる。
これは当初”模型店で売る雑誌”で一般書店では売らない方針だったため。余りの好評判で月刊紙となり一般書店でも売り出された。
当時からしばらくは「航フ」のプラモページと比較するとスポンサ−や問屋との兼ね合いか、チョット物足りない指摘、内容(図面等)と感じていたが、
HPでも活躍されている黒須吉人氏が登場する頃には立派な模型専門紙になってきた。
それに比例して「航フ」のプラモページは扱いが小さくなっていったような気がします。

   写真左:創刊から第8集まで     写真右:第9集から17集まで


S44.7月に、日模200あまつかぜの作り方。 S44.9月に、日模200大和について解説があるが、あまり私は知らない

プラ・ホビー
機体を作る動機の中に、塗装のカッコ良いのを見つけて作り始めるという事があります。
そんな時にヒントを与えてくれた資料が「プラホビー」でした。
私が初めて通信販売形式で購入を始めたのが’70年6月(59号)からです。
それから5年後の’75年10月(121号)から冊子形式になりました。
ところがその年の年末に購入を止めています。冊子が気に入らなかったのか?と思っていましたが、今これを書いているうちに、
私の結婚の時期と一致しているので「結婚して新居に移ってやめた」という結論に達しました。
なにしろこれは郵送してきますから、こっそり買ってくるわけにもいかないものでした。
 

資料探しの裏話
ものの始めとか、逸話は大体の時期が見当はついても、このように文字にするとなると裏付けに大変時間がかかります。
例えば、「バルサキビガラ ではありません」という広告が実際に出てたのですが、紹介するとなると何年の 「航フ」に掲載されていた事かを確認しなければなりません。
しかし、探している内にまた当時の懐かしい記事に心奪われて時間が過ぎていきますし、第一疲れま〜。
だってその場に変な姿勢のまんまついつい読み入ってしまいますからネ。  (再調査の結果、航空ファン1959.12月号、シュミット・ホビーが掲載のものでした)
雑誌からの面白い記事はいくらでも出て参りますが、まずはこのへんで、


私が中学3年夏に書いた絵です。
注目して頂きたいのは、二式水戦のこのようなアングルの写真はなく、全くのオリジナルです。ただヘッドガードを書き込んでいますが…。
「航情」増刊「日本軍用機の全貌」の小さな黒ベタの図面(SC150程度)から自作したソリモを見て書いたと思われます。
その模型写真は昔ばなし2写真Eにあります。
飛行機や軍艦の絵ばかり書いてました。
一足遅れの軍国少年と思われるかもしれませんが、全く普通の少年でした。


上左は、英映画を見て書いた「スイフト」です。
他に、版画も彫っていましたが、やはり英国SE5a
これらを描いた当時、米国にイングランド民が移民して約330年後の’57年に「メイフラワー号」が英国で復元されて米
プリマス港に向け航海を再現しました。
毎日グラフにその写真が載ったのを見て版画にしたこともありました。

 

さて次頁の「昔ばなし4」はソリモの図面や、プラモ初期の製品のボックスアート、ロゴの形態についてです。
 

昔ばなし4  Top  改造したぞ