Title9.jpg (5697 バイト)

(3)チーフテンを作った頃のお話
はじめて戦車プラモデルを作ったのは’68年のタミヤ35「M41ブルドック」でした。
ゴムキャタですごい登坂能力を有したものでしたが、走行性第一でスケールモデルとしてはデテールも一体化された部分が多く何か物足りなさを感じていました。
’69年暮、模型屋の上の方の棚に高荷氏描くところの「チーフテン」大型キットが目に飛び込んで来ました。箱もデカかったしキットも仕切り板に囲まれ”ごーか”でした。
早速購入し製作も進んでいくうち、ギァボックスの取付位置がどうも高過ぎてシックリいきません。
頃は寒い冬の深夜のこと、首にタオルかなんか巻き付けてヘルメットは被っていませんでしたが”デモ隊くずれ”みたいなカッコウでカミソリを立てて長時間に渡って
「キーコ、キーコ…」と言わせた様は、当時の世相からすれば、危ない雰囲気でした。今ならライトブルーの簡易服を着て深夜にフラスコをカチャカチャやってる感じかナ?

コード
デテールも申し分無いキットですが、コードがくっ付いたままの姿は”艶消し”の様です。そこでRCコードを着脱式に改造しようと試みました。
最初は「グッ、グッ」と機嫌悪そうでしたが、調整したら勢い良くジャッ、シャラシャラと回り始めて、「ウウッ」とこみ上げるものがありました。
しかし走行テストすると「M41」に比べどうも走り方に”誠意”を感じないのです。負荷を掛けると何かいじけているような態度にも見えました。よ〜く見るとキャタのリンクピンがキツイ(硬い)ようです。

リンクピン
組立式キャタピラにも驚きました。その組立にも時間が掛かり、また指も赤くなって痛かったもんです。
それをまた完全にバラしてポリ製のリンクピンにある小さなバリをカッターでは切れないので安全カミソリで1つ1つ丁寧に取っていく作業です。
今なら”下請け”に回すという知恵が思い付くのでしょうが…、今でも無理か。
そうやって組み直しても引っ掛る処がアチコチあったりで何回も作業を繰返しました。最後にはキャタも私もヘロヘロになりました。

塗装
さて塗装ですが、こんなに苦労したキャタに筆塗りみたいな”粗暴”なマネは出来ません。
ここは吹き付けに決まってます。と言って缶スプレーなんてトンでもない! 秘蔵の手押しスプレーで厳かに執り行いました。
時も過ぎ、如月のこととて、夜半の寒さはことにわろく…云々、柱にカレンダーを掛け、それにキャタをぶら下げ薄く吹き付けました。
キャタを外した時に白い紙にこげ茶色のクッキリ写ったシルエットを今でも覚えています。

ところで手押しスプレー
殺虫剤を噴射する噴霧器を知らない世代には理解できない話ですが…
殺虫剤を入れる容器を取り外し、塗装ビンを取り付けてポンプを付けば塗料が霧状になって飛び出す仕掛け、
ノズル口径がどうしても大きいので注射針を加工してノズルに差込む工夫をして、細い口径の吹き付けを出来るようにしたのが自慢でした。
しかし欠点もありました。1.両手が塞がってしまうのでキットをうまく固定するのが大変でした。
2.塗料ビンが下に突き出ているいるのでキットに接近するのに一定距離が必要でした。
3.多少の揺れがあり狙った個所から外す事もありました。
でも手加減で微妙な操作が出来て重宝したものです。 

約30年前のキットがヨレヨレながら現存しています。写真UPは次回に (00.02.01)

(4)図面作成の話

図面を縮小・拡大するには、中学生の頃は”拡大器”というものがありました。
#型に組んだ細い板で出来たもので、支点になるところを机にピンで止めて、左端に針状のピンがあり、その下に図面とか写真を置き、
右端にエンピツを立てて差し込んでいて、その下には画用紙を敷いているのである。左 側の原図面をピンでなぞって行く小さな動きを、
右端のエンピツが大きく連動して動きながら画用紙に描いていくのである。
ところが、#型の各関節がルーズ(きつく締めると身動きできない)なので、図面を描くのは無理でせいぜい鞍馬天狗のブロマイドを拡大して描くくらいが関の山であった。
しかし。 デパートで実演している人は上手く描いていたナ〜。
その頃の常道は計算尺の使用であった。”好きこそ物の上手なれ”でこの取り扱いを中学生ですぐに会得して親父をスゴク喜ばせたものであるが、
その能力は模型関連に限定されたもので彼の落胆も大きかった。
雑誌「丸」の懸賞商品でお馴染みの”にしき屋の1m大和”があったが、その”にしき屋”のカタログを取り寄せると、その中にちい〜さ〜い大和や妙高の
図面が載っていたのですが、それを1/500位まで拡大しようという難工事を次々こなしていました。拡大した図面で模型を作るわけでもなく、ただ図面を所有した!という満足感、充実感に浸っていたわけです。
それから10年後、電子コピーとの巡り合いです。
いまでこそコピー機は縮小・拡大が出来るズーム機能付きが当たり前ですが、そういった製品が出始めたのは記憶ではS46年頃。
この話はズーム機能の付いていなかった頃のお話です。
コピー機を操作しているうちに、ある日「大発見」をしたのです。原図が大きくて2つに分けてコピーして、あとで原図とコピーしたものを貼り合せようとしたら、
互いの罫線が微妙にずれているのです。私の頭の中でピカッと閃光が走ったのです。「そうか、このコピー機は少し縮小してコピーしているのか」
そこでコピーしたものを再コピーしていくと段々小さくなっていきました。1/48の図面が1/72の図面になったのです。しかし図面の線はその都度汚くなっていきましたがネ…。
現在はパソコン画面上で縮小・拡大は思いのままで、しかも細くて緩い斜線もスムーズに描けます。
’90年頃までのパソコンだったら図形も幼稚で任意の角度の斜線はドットが少なくて引けなかったと思います。  (01.05.26)

(5) 昭和53年('78)頃の話
私にとってこの頃はつい10年前のことのような気がする。
あまりに時代が近過ぎて面白くも何とも無いだろうと思っていたが、その頃中高校生だった人はもう40歳前後にもなろうかということに”計算上”はなる。
…という事は、当時小学4年生でプラモデルを作る興味を抱こうかという人でも33歳あたり。おうおう、ワシも歳を取ったもんだ。
その頃の”模型日誌”なるものを紐解いてみると、バンダイ24シリーズの私なりの修正図面、例えば零戦は胴体長を5mm延長、P51は主翼の厚みを薄くするために
中央を貫くリブを作ったり、Bf109は丸々太った胴体部分のダイエット策を練っています。
紫電改は良かったようです。 タミヤのハレーダビットソン完成や1/12ポルシェRC車を完成させています。
バンダイのデニス消防車のフレーム組み立てEGを取り付けたところで、 MAX模型のM26やM15のキャリアーも完成してM60を載せていた頃です。前振りはそのくらいにして…
この年は私にとって記念すべき年であります、信頼される艦艇図面や制作指南書が発行されてきたからです。
前年52年暮れに不二美術より発刊されていた「長門クラス研究」とS51年発刊「妙高クラス」を手に入れ、さらに「深雪会」から数種類の1/300図面を取り寄せた年でもあります。(後に全部1/200に買い換えた)
早速、嬉々として友の会1/400や深雪会1/300図面を1/200に拡大製図をして自作に取り掛かっています。
今考えると、艦船の正確な資料はごく一部の関係者のみのものであって、一般モデラーにはお目に掛かる機会は無かった「暗黒時代」から、少しづつ資料が
市販されて来て、非常に嬉しく、ワクワクする時代だったと思います。しかし、まだ完全に私が資料を咀嚼できたり集めたわけではなく、「ああでもない、こうでもない…」と
”悩んで楽しんでいた時代”です。

その後、「艦艇友の会」から1/200図面が発行されましたが、私の実力では側面、平面、断面図だけでは立体化するのは出来ませんでした。
「 深雪会」図面も1/300シリーズから1/200にサイズアップしてからが本当に「これなら行ける…」と思えて来ました。

(6)  艦船建造に突入
時代が下って’98年頃から、学研の「太平洋戦史シリーズ」の一艦ごとの解説と大型模型でのクローズアップ写真によって非常に刺激を受けて、
実際に手を動かして制作に踏み込む決断がついたと言えます。それにホームページを公開した時期とが重なって更に加速した…と思っています。
戦艦「金剛」1/300の制作が再開されました。

 5-1 オータキの悲劇
S53年に既にニチモ1/200「大和」は購入していて艦橋左右を接着していますが、翌S54年にはオータキから1/250大和が発売されて、半年後にあのタミヤ1/350大和が発売されたんですネ。
オータキもチョット運が悪かったですよネ。あと1年発売が早ければ、初期回収がもっと図れただろうになぁ…。ミッドウェー戦史を後から語ってもネェ…と言うのと同じか、
運命のイタズラと簡単に片付けたくないですネ。それだけ我々モデラーはその後のオータキ新製品発売の機会を失ったのですから。ニチモも飛龍、赤城が発売になったのはこの頃だと思います。

この頃、ニチモ1/500伊勢を深雪会図面を基に作ったものです。艦橋中段の機銃甲板を広く、構造物をスリムに作り直しました。
窓枠を延ばしランナーで作りましたが、高さが0.6mmで接着が難しかったです。 天井部分からランナーを突き刺して窓枠を作るアイデアが無かったので。ループアンテナも苦心の作です。   (01.05.24)


ニチモ1/400 「大和」 竣工時に改造したもの。2隻購入して、副砲はこれに、主砲身は後に1/300「金剛」の主砲に転用しました。
ハセガワ1/450 「赤城」 このキットを手に入れた時も嬉しかった。後部甲板を支える柱やクレーン類の肉抜きや穴あけが大変でした。
艦橋下の円材置き場を改造して詳細写真はUp致します。いや〜、飛行甲板の艦尾部分が2重構造だった、だなんて気が付きませんでした。
図面を見直したら確かにそういうふうに描いてありますが、変更は今更無理ですネ。ただニチモ1/500「赤城」の制作には間に合いますが、モチベーションの方が心許ないです。   (03.07.22)

手前2隻がイマイ1/400「長門」「陸奥」、奥にニチモ1/500エンタープライズがいます。かれこれ1/4世紀になろうとしていますが、殆ど今も変化ありません。
「長門」型については、艦艇保存会から「長門クラス」の本を買った時には「よ〜し、やるぞ!」と意気込んでみたのですが材質が硬くてひるんでしまったことがありました。
煙突周りのトラス構造はエッチングで作ってい ます。
昨今のアオシマ1/700ニューキットのグッドな品質と素晴らしい作例を見た直後は「やってみるか…」という気に”チョット”なるんですけどネ…。
このように、「大和」「信濃」に始まり「長門」「扶桑」「妙高」「伊勢」「最上」それに「飛龍」と新作が次々に発売されて、1/700キットや作例に学んだり、刺激を受けることが
多くありがたいのですが、その都度 「中型模型を作りたいなぁ」と考えている自分に笑ってしまいます。
エンプラは艦載機の尾翼類や脚柱やタイヤがシャープでなく、作り直しているうちにその数の多さと工作の単調さにめげてしまいました。 (03.08.27)

現 代 編

河井氏にお会いした頃
94年の頃そぼ降る雨の中、伊豆下田駅に降り立つ一人の男がいた…。
当時は、「艦艇友の会」の作品が伊豆下田のお城に展示してあった。 その模型作品を見に行くことにした…。
さて、宮崎から羽田に降りて、そこから横浜までバスで行き、昔からある艦船専門店に寄ってみましたが店は既にたたんであった。ピットロードにも行きたかったが時間の都合で断念した。
近所の模型屋に立ち寄り、なぜか平塚の駅前で飯を食べ、三島から伊豆ロマンスカーだったかに乗って下田には16時頃着 いた。あいにくの雨の中すぐにタクシーで下田城内の展示室へ行った。

かの有名な亀井氏の「鳥海」「伊勢」を初め、「赤城」「山城」「大和」「竣工時大和」「利根」「高雄」「秋月」「イ19」を見学しました。
翌日は都内に戻り神田の古本街を回り、いよいよ練馬区の「艦艇友の会事務所」を訪問しました。その頃は事務所建築中とかで、仮住まいのマンションの一室に
ありまして男性の方が出迎えてくださいました。丁度「金剛」の艦橋部を製作中でトップの上空見張り所の前面が角型になっているのを確認できました。
SC500の駆逐艦等、機関紙でもお馴染みの模型がケースに飾ってありました。壁面には柚木武士氏筆の「夕焼けに浮かぶ熊野」等の原画が掛けてあり、
いくら位するのかナ…(^^: なんて考えたものでした。そのうち外出先から河井氏が帰ってこられ、いきなり「艦船の手摺りの直径をスケールの基本にすると考えると、
それを正確に模型化しようとすると必然的にスケールサイズは決まってきます。全景写真に手摺りは写らない程の細さでなければなりません。…」と
模型について河井氏はお話を始められました。私にとってはその時が最初で最後の機会でした。
今だったら私にも完成品がありますので「1/300金剛」でもぶら下げて再度お話を拝聴するために訪問出来るのに…と残念です。
また、「会報」で艦船模型と本物の風景を組み合わせた合成写真に取り組まれていましたが、私も同じく、合成写真がやりたくてパソコンを買ったわけです。
そしてその延長がホームページの発行でした。

私の模型観に大きく影響を受けた亀井氏の「鳥海」と、作品群を前にした私
 (01.05.08)

昔、妹が買ってきた鎧兜、サーベル、王冠。
甥っ子とはサンダーバーズ。息子とは筋肉マン、アンパンマン、ガンダム、北斗の拳、ウルトラマン、ソリテック、サンバルカン、ゴッドマース???時々はなぜか峠の茶屋、パワーショベルとか…。
その他のスケール物では、1/50蒸気機関車シリーズ、1/20カーシリーズ、1/32カーシリーズ、1/1ガンシリーズ、レベルやイマイの帆船シリーズ、1/12〜6バイクシリーズ、等々 雑多に作りました。
またの機会にお話致します。

ばなし10    Top