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蘇ったプラモ製作への兆戦

(1)プラモ再開
S42年にモデルアートが書店に並び始め、プラモデルもレベルをはじめ現在の日本のメーカーが勢ぞろいして製品を続々市場に出し始めたわけですが、
私がプラモキットを再び手にしたのはS43年になってからです。前述のタミヤ35 M41を初め、ハセガワ72 F4Jファントム、コグレのサーモピレ、イマイ24ジープ等です。
全く一貫性の無い買い方ですが、良く言えば各分野のプラモを研究するためと申しましょうか…。
翌44年になり、レベル72ファイターシリーズ、タミヤ72震電と100のF4Ex2、ハセガワF104J(メッキ仕様)、LS75の零戦、隼、二式水戦、バンダイ40彗星、
そしてタミヤ35タイガー1、それに続いてSC25チーフテン等々と堰を切ったように買っていきました。

S45年は第一回プラコンのあった年ですネ。
下写真はレベル32の零戦です。キャノピー、燃タン、脚カバー自作で、ラダーは可動、フラップはリブを入れて最初は可動にしていましたが下げ状態に固定しています。
キャノピーを自作したのはその厚みでパイロットが窮屈そうだったからですし、脚カバーは厚く脚柱から離れタイヤが外れ落ちそうに見えたからです。
ラダーを可動にしたのはソリッドモデルの作法を拭いきれていなかったからでしょう。
日の丸はデテールを潰したくなく手書きですがふと我に返ってみるとチョットオーバーサイズかな。
実は、燃タン上部からは燃料が染み出たような跡があったのですよ。透明の2液接着剤を初めて使ったのですが固着時間が長くてタンクの位置決めが出来ず、
ついドライヤーの熱風を当てたのですが接着剤が溶けて垂れてきてました。24H後に接着出来たときは垂れた接着剤がまるでオイルが漏れたように見えました。
当時の模型誌では全然触れていなかったブレーキホースを早くも零戦では付けています。
白黒の不鮮明な写真とイラストを基にして、ブレーキホースを3つのパーツに分けて作りました。材質もゴム、銅パイプと真鍮パイプというふうに塗り分けました。
またカウリング上部の空気取り入れ口にネットを貼ったりしましたが、これはやり過ぎでした。
スピナーは白地の下から茶色の基本色が覗いているという設定で、所謂”研ぎ出し”をしています。
これは主翼付根でも濃緑色に銀地が見えるところでやっています。今でも心残りはマスバランスに手を入れてない事です。
しかし、このレベルの表面リベット処理の見事さが本格的な模型制作再開のキッカケになったと言えます。 

上左写真は
これもレベルSC32の”Bf109F”です。モールドの緻密さは”零戦”と同じ出来で、エンジン等も素晴らしいものでした。
しかし、スピットと同じで脚室が無く素抜けでしたのでプラ板で作ったものです。
反対にG型のタイヤ収容の膨らみが主翼上面にモールドされていてそれを修正するのがモールドが緻密だけに大変でした。
リベット再現に注射バリでグリグリ回して彫りました。レベル自慢のE/Gにも2〜3本パイピングしてやると万感胸に来るものがありました。 
上右はタミヤSC72の”震電”ですが、撮影の狙いは”零戦”の脚のブレーキパイプにあったのです。
もっとも脚カバーも薄く作り直していますが、プロペラにヒネリの無いのは女性のウエストにくびれが無いようなもので……ムニャ   ムニャ
 
下は集合記念写真です。(左からレベル32零戦、72飛燕、LS75零戦、レベル72スパッド)
昭和43年頃はレベル製品の全盛期と言える、レベル社の品質や製品量も充実した頃です。
手前の水溜りに写った機影が横一列というのも位置関係に無理が出ていますネ。 
レベルの社長は女性であるというのを航空情報で読み、やっぱアメリカだなーという訳の無い驚きでした。

下の写真
左のSC72 F4Fと、SC72 スパッドがレベル製品です。
F4Fの塗装は今見るとミデアムグレーのところがライトブルーで塗られています。またレベルカラーのフラットベースが効いてくれず苦労しました。
銃口のところがつや消しになっていますが、これはハンブロールの黒を使っています。その後フラットベースは炭酸マグネシュームを使い出し、その後レベルの艶消し剤は一度も使っていません。
撮影法は標準的な方法で、風景写真を倒立してバックに置き機体をテグスで吊って、扇風機で風を送り熱い300Wのライトで照らしフウフウ言いながら撮ったもんです。
1/30とかのスローシャッターのところに風を送ると当然機体が揺れて、写真が出来あがるまではブレの有無は分からないという”神頼み的”な撮影でした。
マアそれは其れなりにファインダーを覗いている時は楽しかったです。それにしても写真が暗い!世相を反映してたのか、はたまた私の青春の光と影か?(意味不明) 
右はニチモSC48 スピットファイアーです。元々はモノグラム製品と言われる由緒正しい名門の出です。マルサンがコピーしたのをニチモが引き継いだと聞いています
。しかし脚室は無く、素通しでコクピット内が見えた夏向きの作りでしたしキャノピーの透明度も悪かったが、プロポーションは良く、誰もこのキットを批判する人はいませんでした。 

追悼記事 : 実は次頁にあるレベル SC28 の「キャメル」はマーク類も手書きで愛着のあった機体ですが、今は手元に有りません。
私が知人に差し上げたのなら納得できる話ですが、実は実家に置いてた時期に”お人よし”の姉がある人に「この模型カッコ良いね」と誉られたらしい。
あまり人に誉められ事の無い姉はまるで自分が誉められたかのように「気に入ったのがあったら持っていきない」とか言って上げたそうです。
後で「誰に上げたの」と”優しく”聞いたのですが、「よく知らない人」だそうな!… 

なぜわかったかと言うと、タミヤの疾風等はキットの出来がうれしくて5機まとめて買っておいたのですが、作っている最中に、
右主翼上面部品が1つ余るので「儲かった」なんて思っていたら、反対にそれ以外のパーツが無い事に気が付いて「変だな」と思い、
調べて見るとまだあるんですヨ、人に上げたのは。ジャンボ旅客機のデカイのはマアいいとしても、ハセガワSC32のF86の初代キット、スチールパイプにトヨタの牽引車のついてる奴。
後年買い直したらキットにはこれが付いてなかった。トホホ… (反対に「キャメル」には整備兵が付いてた)  模型を大事してくれる人だといいが…‥ 
しかしこれは天がくれた試練なのだ!このような逆境に耐えて、私も人間が また一回り大きくなったような気がします。(マサカ!オーバートークでした)
思えば、中学3年の我家の引越しの際、母が近所の子供達に”勝手に”ソリモを上げて以来の二度目の「紛失事件」でした。(合掌)
 
予想される「次」は、私が死亡した時ですが、その時は事前にインターネットで模型に理解の有る仲間に呼びかけ、今度は”自分の意思で”差し上げます。【予約受付開始日は未定ですがそう遠くない?】 
ですから、私より早く逝かれる人は遠慮なくネットでお知らせ下さい。しっかり遺志を引き継ぐ所存であります
ここんとこは多くの社会的問題をも含んでいます。みすみすプラモ文化の継承を中断していいものかという観点からも、”公的”な組織を造る事が将来必要と思われます。(^^)

話が大きく跳んだので、次回あたりまとめに入るのかナ? 

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