Title2.jpg (4282 バイト)

★前章で紹介した「愛宕」の写真はこれしかありません。(写真:下左)
魚雷発射管のところを、写真で見た戦艦の副砲のように表現した事を思い出します。 
なにしろ小6の子供が写真を撮るのだから、大きく詳細がわかる写真を!という熱意が、つい近付き過ぎてピンボケになって表れています。
青インクで書き込んでいるのも懐かしい!海面を砂で表現したイイ写真があったですが、人に見せびらかしている内に無くしてしまったみたいです。

想い出しますが、艦橋・煙突等がある中央ブロックは釘1本で船体と繋がれていて、クルッと廻すとコインの入口がある貯金箱にもなっていたわけです。
時代を敏感に反映したアイデアだったと思います。ここんとこを親に見せて何となく安心させていた、心優しい親思いの私でもありました。
母が「お金取り出す時はどーすんの?」と聞かれた時は、貯金する積もりの全く無かった私は《ドキッ》としました…‥ 。
アルバムは、写真を貼ったら改めて見るという事はしないもんですが、今「愛宕」の写真を見直して、バックの樹木と親父が作った鳥小屋から、熱かった小6の夏休みを思い出しました。

右上はSC720の「インディアナ」です。一番難しいのは、機銃身を砲塔に付ける作業でした、その頃は小さなドリルが無くいわゆる錐でやるわけで、必ず木が割れてしまいました。
瞬接も無く苦労しました…苦労は幼少の時分の頃から…。
右下は、前ページ紹介の田尾さんが作った SC308の「愛宕」です。すごいでしょう、高校生が材料を集め、簡単な図面を基に制作しているのですから驚きです。
これを見て模型にうつつを抜かした私も 、当然の成り行きでしょう。海面は砂を利用しています。これを真似して写した事もありました。


上左写真は、オークションに載った画像ですが、右の私の思い出の図面と一致しました。

 ソリモ、飛行機作りにまっしぐら

1.ソリモ・キット製作の頃

★私が中1になった昭和33年頃、近所の田尾さんは高校生で 愛宕型巡洋艦を2隻同時に作っていて、船体をガラス片で削っていたのを覚えています。 
その青図面を半年後に頂いたが、全くの側面と平面図だけのソッケ無いものであったのを見て、当時の不鮮明なグラビヤ写真を頼りにして立体化された解読力はすごいもんだと思いました。
私は頂いた青図を写真に撮り、学校の放課後、放送室の壁に模造紙を貼り、幻灯機を持ち出して、そのネガフィルムを差込んで500分の1に複写したのですが、
よくもマア、フィルムが燃えなかったもんだなあと、今になって冷や汗かいてます。でも昔の学校は自由があった…

★やがて私も、航フ掲載の静岡にあった某所から「霧島」300の図面を取り寄せました。ここのは側面、平面に、艦橋のところだけ正面図がのっていましたが、とても立体化できる力がありませんでした。
ただ、側面図を画用紙に写し色を塗り、バックに夕焼けの入道雲を描いて同級生に自慢したのでした。人から”絶賛”されると引っ込みのつかなくなる私はいつもそのまま自宅へ持って帰れないのでした。
 
★さて、田尾さんは時を前後して小型精密なガレオン船を作って、その前にサンタマリアを作っていたわけですが、サンタマリアは、後で写真で見せてもらって時に海面はセメントで作ったと聞き成る程と思ったものでした。
そのガレオン船の製作現場を初めて見て ”これが模型工作のやり方なんだ” と認識させられた瞬間でした。ナイフがよく切れるなァと今でも印象に残っています。

あんまり私が熱心だったのか、田尾さんは、にしき屋の「零観」と「疾風」の半完成キットと、零戦、愛宕の青図を惜しげも無くまだ中1の私にくれたのです。
今考えても、”太っ腹”だと思います。その上、子供の科学の増刊号の”ジェット機”という赤い表紙の写真集、毎日新聞が出している航空年鑑という写真集、それに一年分の「航空情報」もくださったのです。
今も持っていますが、表紙には、カットラス、F84、ハンター、モノグラビアでは、スカイホーク、F100、F101のデビュー写真、97式艦攻の下部海面上に写っていた大和とか、F104は想像画がのっています。
そして、増刊「日本軍用機の全貌」という橋本喜久雄氏の図面集も含まれていました。それからというものは、頭の中は模型のことばかりの状態でした。


下写真左の「疾風」は、頂戴したにしき屋キットを完成させたものです。  
写真上右は、「隼」です。キャノピーが木製そのまんまです。胴体のマークは首都防衛の角型白枠ですが、主翼は丸になっています。
なおプロペラは鉛で、タイヤはゴム製の既製品です。ただ、脚柱と車輪軸とはハンダが必要だったはずですが、友達にでも頼んだかな?


この疾風の図面は「昔ばなし-4」に掲載しています。上写真はキットの画像

それが契機となって、私も模型屋で買うようになりました。好きだった「F86E]sc63は”YMC”というメーカのを買っています。
同時に買ったのは、「隼」50:わちさんぺいだったか南方での隼が活躍するマンガ(レベル隼の箱絵のようなイメージ)を読んでいてその影響もあると思うし、
雑誌「丸」にのっていた白たすき(首都防衛)の写真に惹かれたのかもしれません。他に買ったものを列記します。
「ハンター」SC60:写真集に最も優雅な姿のジェット機と書いてあったからでしょう。「B47」sc100:当時の先端技術を感じたのかも。
小スケールの半完成キットがあり友達はそれを買い、私は、大型の粗キットを買いました。
「T-33」SC50:これは小学生時の自衛隊見学の影響でしょう。(当時はF86はまだ新田原基地には未装備だったということを「航フ」最近号で読んだ)
もちろん「零戦」SC50も買っています。しかし、添付図面の零戦の写真が米軍鹵獲機を真横から撮り、尾翼に斜めにVのマークの入ったやつというのは
覚えていますが、当時の仲間内でも人気があったので手元に図面も写真も残っていません。
写真は完成の遅れたB47,T33を含め残っていません。(S35父親の定年で転居しておりソリモは友達にあげています)今思うと残念です。
その時は友情のしるしだったのですが、やがては捨てていかれるのが普通のことですから、持っておけば良かったかな…と。

このゴム製タイアに関する面白いお話を HP”Mochi’s HomePage”(リンク)の主催者の方からお伺いした話です。
所属の「だんぶりの会」の70歳近い現役ソリッドモデラーの高橋さんは展示会に双発輸送機を数機出品されてましたが、それらのスケールを決めるポイントは、
なんと既製品タイヤの径から逆算して機体のスケールが決まるのだそうです。
そう言えば、40年前の模型欄でもスケールの統一が叫ばれていたわけですが、このような訳でスケールがバラバラになっていたのかも知れません。

(話を戻します) Bー47も作りました。下半角の主翼にエンジンポットの取付けやタイヤを水平に取付けるのに苦労しました。
接着剤のセメダインが乾くのに時間は掛かり動くので、エンジンを正面から見たり横から見たりして角度修正が大変でした。
塗装はジェット機の場合、全体にパテを塗り、次にサフェーサー代わりの白を塗り、水ペーパー(又は灯油)で研ぎ上げ、筋彫りを入れたのを思い出します。
銀は殺虫用の手押しポンプを改造したもので吹き付けておりました。細い黒ラインを引く時、折角の銀地を黒色が溶かして浮き出てきて黒ずんだりして乗りにくかったナ〜。

T−33も同じような工作をしてましたから、もうその頃は今の自分より、プロみたいな丁寧な工作をしてたんですネ。
木を扱うので、下地処理は雑誌に載ってる解説のとおり、”そんなもんだ”と思ってやっていただけのことですが。 
又、当時から筋彫り、墨入れは常識でした。ただプラモの凸モールドになって、やらなくなっただけです。
筋彫りも相手が木ですので”足”を取られないよう神経を使ったものです。それに下地に白塗料やクリヤーを塗っていて、ナイフを入れると硬くて塗料が
パチパチと弾けて、線がギザギザになる事もあったりして苦労しました。 
また、胴体の文字もB47は、U.S.A..Fとは略してなく長かったし、黒で文字を書けば銀が溶け出してグレーになるし「銀と黒との攻め合い」でした。 

YMC (60)「ハンター」
右主翼の表面に薄っすら筋彫りが見えています。もちろんマークやシリアルも手書きです。
フロントギァを上手く作っていると思います。ハンダを使っていますネ。 
また見事3点姿勢をとっていますが、これは胴体の中心を木工ドリルで空けているからです。ドリルを固定して胴体のほうをギリギリと回して空けたのです。

それにキャノピーは絞り出しです。もちろんT-33も同じやり方でした。ウェイトはハンダを型に溶かし込んで、それを組み込んだものですが今はそんなめんどうな事はできません。
ここに添付図面が残っていますが、”青焼き”です。あの橋本氏製図のもので 1959〜4の記入があります。
その他の図面は現在のような印刷になっています。キャノピを作る材料の透明エンビ板は、雑誌には「定期入れを利用して…」なんて書いてありました。
時代ですネ。 

2.ソリモ自作の頃

中2頃からは、キットは買わずに航空情報の増刊で”日本軍用機の全貌”の図面(黒いシルエット図面で今思えばジェーン年鑑形式)を拡大したり、航空情報の中にある図面から適当に作るようになりました。 
航空ファンも、図面目当てに買っていたようなものです。今でも手元に”E.Hさん”の折込図面が沢山あります。 

上写真
 F−86H、F−100A、F11Fタイガー、ジャベリンと写っています。
エーリアルールの事をモンローラインとか、当時出たばかりの、コカコーララインと言ってたような気がします。(その理論を採り入れたのがF11F,F102,後のF105,ファントム) 
その話を読んで「F11Fタイガー」を作ったわけです。あと2式水戦、月光、屠竜も作りました。
材料は朴の木を使ってましたが、版画用のハガキ大のしか売ってなくスケールの大きさも限られてくるわけです。 胴体は左右張り合わせ形式で、真中を彫刻刀でくりぬく方法でした。
写真にはありませんが、ボナンザ、屠龍、F-102、B-29、最後に 写真B にあるとおりF104C等も作りました。
またその下に「零戦」SC25、左に「ミズーリ」SC500が見えてますが、悩み多き年頃で未完成に終わりました。
しかし、これらのソリモで作った機体や船には後々まで大きな影響を受けています。同じ機種のプラモキットが発売になるたびに”特別の感情”を持って買っております。
最初に作ったネービーブルー色のセーバーらしきものは、同じようなカラー配色で前ページにあるようにハセガワキットを使って再現しています。



参考:この当時の航フ'59.11に掲載された艦船写真です。「1/200天津風」はあの「1/100大和」で有名な坂上隆氏の作です。(出典:航空ファン)

さて、次回は「プラモの創世記の頃」についての考察。… の こ こ ろ ダ 〜

 昔ばなし3 Top