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1.プラモ黎明期

'60年(S35)が私にとってのプラモとの出会いの頃と思います。 マルサンの零戦 SC40ぐらいのと、DC7もあったし、
あとはミニミニのB 66、もあったが、残念ながら 買っておりません。友人が修学旅行で買ったのを見たが、その場では”ど〜ってことない”てな顔をしていました。 
それは、まだまだ航情、航フ等もプラモを認めていなかったし、私自身もまだソリッドモデルに没頭していた頃ですから。
 しかし航情では、増刊号の中で木村教授を解説者にして、海外のプラモ事情として紹介されていました。ソリモではスケールを統一しようという動きがありました。
その頃のソリモメーカーは箱の大きさからスケールが決まるというところが一部にあったわけです。
もっとも、プラモでもラーベル社(一時期32分1シリーズの零戦、Bf109,スピット等で日本中を沸かせたレベル)でも半端スケールで出してた程ですから。
その名残りがF94,F89の再販物、あのモノグラムでもハスラーやスカイレーダー等は今見ればどうして?というスケールで発売していました。

F−105B(モノグラム72)

さて、私のプラモの処女作はモノグラムのF105Bです。'62(S37)のことです。 高1〜2の頃ですがアサヒ玩具から通販で取り寄せたものです。
銀の塗り分けはまるでソリッドそのままです。インディアンのマークも帯マーク等もモチ、手書きです。
この写真は、説明書をあしらってアルバムしてたのですが、いい記録になっています。 

このキットはレバーを引けば射出座席が飛び出すという教育的メカニックがありましたが、もちろん無視です。
ただしその後、はやった動翼の可動は無くラインが崩れていないのが幸いでした。
ただ、回転式弾倉扉は可動で交換しようにもプラ板なるものが無く、木製でカバーしてます。   でも、いきなりモノグラムとはなぁ…

もっとも、ソリモ界では、動翼に凝っている人は多かったのですが、それが見破られない工夫をしてたという自虐的な凝りようようで
あったわけで、(「…イヤ実はここんとこ動くんですワ 」と言う一瞬に賭ける) これが後に、レベル1/32「零戦」のラダーで実現しましたが…。
形状を壊す可動の表現は私は固定していました。

さて、プラモフアンにもなった原点の、ソリモを始めたキッカケ、つまり 原始モデル時代 について触れないわけにはまいりません。 その時代を如実に表しているのが下の写真です。

【上写真左】
昭和31年夏、満足そうな笑顔で、何の悩みも無く、人と人の軋轢なんて一生無縁のものと思われる時代に生きた一人の少年、これが何を歯糞う、いや隠そうーわたくしです。
もう賢い読者はお気付きでしょうが、私は、いいとこのボンだったのです。(ウソつけ!)アホらしーので話を進めます。
この手にしていますのは、ハセガワ製(?)のミズーリSC330です。舷側は下塗り状態で、塗り分け用のテープを剥がしていない状態のようです。
最近はメタル模型等で当たり前のサフェーサー塗りを 当時から忠実にやっていました。
この図面は昔ばなし5で再度表示致します。

☆ しかしこれが出発点というわけではありません
【上写真右】
次は、S36年当時のごっちゃ混ぜに写った写真を見ながら、お話を進めてまいります。
プラモでは、フジミの陸奥550,武蔵SC700ぐらいでしょうか、その上にF86が見えますが日模70 だと思います。
日模では他に零戦70、スピット70、を同時期に買っています。モノグラムのF105の箱も見えますが、手前にパイロットが射出座席から
飛び出した瞬間という縁起の悪い構図になっています。 
自作ソリッドでは、F104CのSC90、その上がミズーリ500(上述ミズーリのスケールダウン仕様) です。下には零戦SC25があります。それに当時は
シングルボタンのラジコンの”ピクニック”の骨組みも写っています。 雑誌では、「世界の翼」の表紙に マッハコーンの付いていないF104Aが、
そしてその上の「世界の航空機」の表紙には、F102試作機で音速の壁に悩んでいた頃の写真も見えます。その奥は航情の図面で真っ赤な塗装のP51もあります。
1番手前に独F104Dがありその影に武蔵の箱絵がわずかに見えます。「武…」の字が判るでしょうか?

上の右 集合写真に見える フジミ「陸奥」1/550 の箱絵です。

Note:今思うと、この当時、高校生でラジコンを買うなんて…。
今の時代に換算すると20万円程度でしょうが、何で買えたのかは分かりません。

そう言えば’62年には「グヤトーン」のセミアコースチックギター(3マイク)を持っていました。

あのビートルズもドイツあたりで苦労していたようで、
日本でのグループサウンズやエレキ・ブームは3、4年後になります。

この後プラモは、’62から5年間のブランクがあり、’68年(s43)暮れにタミヤ35のM41有線RC戦車を、近所の子供に喜んでもらおうと思って作ったのが再開1作目です。
コタツの上で力強く動くゴムキャタの戦車に <私が> 喜んでいたのは言うまでもありません。
それから現在までで、千点近くものプラモキットを買っております。

   マァ、プラモの話はさて置いて…

2.原始モデル時代

その ’57.8月(s32) 私が小6夏休みにデパートで買った一等巡洋艦 愛宕(SC500)です。重巡なんて書いてありません。
最新式ほりぬき船体(特許出願中)とあり、T.M.K(日本模型教材研究所)と続き、さらに設計製図 山中周蔵 とあります。
 【田宮模型歴史研究所の研究結果を閲覧した結果、田宮製ではと推定】    山中さんの設計なのに小6の私が青インクで図面を修正しております。特に艦橋部分と艦載機についてです。
なぜできたのか?それは近所に住んでいた田尾さん(後に海上自衛隊勤務)が模型マニアで、にしき屋の図面で 愛宕1/308を作っておられたのを見てたからです。
マアそれだから子供なのに戦艦を選ばず渋い巡洋艦を選んだのだと思います。
蛇足ながら、このキットのボックスアートはなぜか艦橋がコンパクト化された最終状態で描かれていて、当時は資料的にも珍しかったのでしょうか、
田尾さんが私の「愛宕」を見て「ウ〜ン!」とうなったのは模型の出来映えではなくアートの方…でした。 
それからは、インデアナSC720、陸奥SC600,ワシントンSC520など作っていますが、選定について今となっては首をひねるばかりです。
ものすごくマニアックではありませんか ?、もっとも田舎ゆえ戦艦を選んだら、こんなのしか売り場に置いてなかったのでしょう。  (これらのキットの図面は 昔ばなし4に掲載)


私の軍艦模型への思い入れ
私の”模型の思い入れ”は少年時代に胸躍らせた軍艦に行き当たります。軍艦模型制作に興味を持ったのは、近所の田尾さんが「愛宕」を作っていて、その制作過程を見た時に始まると思います。
「愛宕」の船体をガラス片で削っていて、船体の流れるラインを見て「すごい!」と思 い気持ちは既に固まっていたと思います。
ある時勇気を出して「模型見せてください」と行ったのがキッカケでした。 あの頃は小学生が高校生に話しかけるのには相当な勇気が要りましたよネ。
●戦艦「陸奥」と級友M
級友Mの親父が中学の先生をしていて、「陸奥」を作っているという話を聞いてその中学に見に行きました。
その頃は小学生で中学の理科教室に入るのは怖かったのですが、その「陸奥」を見て心が揺さ振られました。
空中線が金属線だったからか、部品の一部がグラ付いていましたが、 それでも「威厳」がありました。その級友の名前には何故か“むつ“という字が入っていました。
ある時、その級友の部屋で空母を作っているのを見つけて、次の日には、田尾さんから頂いた「零観」(にしき屋半完成キット)の上翼は付けるのを省略し た模型を持ち込み、
下翼の上に将棋の駒を載せて「フウィーン、ダッダッダッ…」と遊んでいました。カワユイ… どうも私の初陣は「艦爆」だったようです。
●戦艦「金剛」との出会い
級友Nの親父が「妙高」に乗っていたという話を聞きつけ、無理やり”親友”になりました。彼の親父から「金剛」の生写真を”多分”貰いましたがそれを見て「すごい、すごい」というショッキングなものでした。
にしき屋かのカタログに載っていた小さな「妙高」の図面を拡大してその人から機銃の位置とかを書いて貰ったことがありました。
●艦船写真集と絵葉書集
級友Tは絵を描く上での仲間でありライバルでしたが、いい奴で、私が軍艦好きなのを見てて、ある日家から艦船写真集とカラーの艦船画の絵葉書集を持ってきてくれました。
朝日をバックにして、見上げる空母が進撃するところで、正に艦上機が飛び立っているシーン。潜水艦が夜陰に乗じて海上を航行するシーン等など。
この風景が私の合成写真のコンセプトになっています。

そして初めての大作スケール1/330「ミズーリ」などが今でも心に残る模型です。

このような関わりのある軍艦を最近新しい資料を基に作っていますので、やはり「思い入れ」があるのだと思います。

田尾さんから借りた雑誌には朝鮮戦争でのジェット機の写真がのっていました。
カッコイイのが、銀翼にストライブのF86Eセーバーと、ダークブルーのパンサー、クーガー 等々…胸をときめかせたもんです。早速セーバーを作りました。
図面は無く、写真から受けた印象で木を削って組み立てたものです。これぞ”印象派”? 色はネーヴィーブルーに黄色のストライブという米海軍のご都合色です。
キャノピーはロウソクをポタポタ落として整形したものでフレームは紙でロウの中に埋め込みでした。
クリア代わりにハンドクリームを塗りつけるという画期的なものだったが、機体表面にホコリがついて困ったことを覚えています。


上写真は、ハセガワ72を使ってイメージの近い色で再現したものです。

翌年の中学1年になったら今度は本格的に飛行機に走ります。
(その話は、昔ばなしその2へ続きます。)

映画のお話
F86セーバーを主人公にした映画、月形龍之介(教官)が夜の浜松基地を求めて飛行してやがて「燃料ゼロ…」と応える落ち着いた声を今でも覚えています。
石原裕次郎の「紅の翼」も覚えています。セスナ「スリーゼロスリーワン…」とコールサインも覚えています。

 

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